昔、食関連の雑誌を立ち上げるため、出版社の営業マンと一緒に鹿児島の広告主へのご挨拶旅に出たことがありました。予算を割いてくれた県の各団体や焼酎蔵などを周り、どのような内容にするかの打合せがメーンの仕事でした。
滞在中、昼は高級店で名物の黒豚をご馳走になったり、夜は天文館の居酒屋で豪華な刺身などもいただき大満足な旅なのでありました。
最終日。ずっと案内をしてくれた某団体のM氏が「今夜は私の行きつけに行きましょう」と誘ってくれまして、今度はどんなものが出てくるのだろうとウキウキしながらお供したのです。
中心街のホテルからタクシーで数分。連れていかれたのは、繁華街から離れた、薄暗く細い路地の入口。古い木造の建物が並び、昭和初期の長屋の風情です。一瞬固まりました。
「こちらです」
M氏は僕たちの反応を楽しむように、路地の奥へと進みます。桝形のような曲がり角があり、その先はさらに怪しげな雰囲気が漂っています。任侠映画だったら、怖いお兄さんたちが待ち構えていて、身ぐるみはがれボコボコにされる展開です。
案内されたのは、路地の入口から徒歩1分ほどの、ボロボロな店…というか暖簾も見えなかったので、店とは思わなかったくらい。
ガラガラと引き戸を開けると、狭く小さなカウンター席があり、地元のサラリーマンらしき方々が、肩を寄せ合いながら、お湯割り焼酎をごいごい呑んでました。第一印象は、せまっ! でした。
促されるままに中に入ります。座る席などありません。すると、カウンターの中に居た女性から「2階へどうぞ」と声が掛かります。とても若い娘で、店の風情とのギャップに驚いたくらいです。
まさか、こんな子がやっているの? と思ったら、その後ろに時代劇が似合いそうなおっちゃんが、黙々と仕事をしていました。この方が店主のSさんでした。
階段はとんでもなく急でした。梯子の如くのっしのっし上がっていくと、10畳ほど部屋があり、そこに陣取ります。落ち着いてあらためて部屋の中を見渡すと、やっぱり、かなり古いです。
壁も天井もお世辞にもきれいとは言えません。壁の一部なんかベニヤ板みたいなものが貼ってあります。ただモノではありません。「昭和枯れすすき」を口ずさみたくなりました。
いったい、どんなものが出てくるのやら?
すべてお任せしていたので、期待と不安のまま待っていると、最初に登場したのが、見事な赤身の鳥刺し(たたき)です。カツオもそうですが、おいしい身は濃く鮮やかな色をしています。これは絶対うまいはず。突如、自分の呑み食いスイッチが入りました。
お店特製のポン酢でいただくと、歯ごたえといい味わいといい、さすが鹿児島と唸るほどの美味さでした。素晴らしい! 一気にビールが進みます。
一緒に盛られているシメ鯖やタコも、もちろんいい味していましたが、やっぱりここでは鶏が主役でしょうね。
次は串焼き盛り合わせ。大皿にどーんと積み上げらたものを、どんどんかぶり付いていきます。ちょっと甘めのタレだけど、奥深い味わいです。
料理はどんどん運ばれてきます。漬物、味噌和え、ナポリタン、串カツ、焼きおにぎり、なんでもござい! と並びます。格闘していると、近くにロマンスグレーの中年男性が若い女性3人を引き連れて陣取りました。
どうやら、M氏のお知り合いのようで、ご挨拶したら地元南日本新聞社の方というので、あらまっ、ご同業者ですかと盛り上がり、お近づきのしるしにと、芋焼酎がどんどん注がれ、あっという間に楽しい時間が過ぎていきました。
この時のお会計がいくらだったのかはわかりません。けれど、壁に掲げられていた串焼きの値段表を見たら、ほとんど60円だったのを覚えています。
■それから
このお店の名は「あかね」。鹿児島市役所の近く、鹿児島のディープスポットを呼ばれる名山堀の一画にある居酒屋さんです。僕が初めて足を踏み入れたのは2005年9月のこと。以来、すっかり気に入ってしまい、鹿児島に行くたび、ひとりでぶらっと訪ねていました。
狭い店なのでカウンターが満席の時もありましたが、いつも常連さんが気を利かせて席を空けてくれ、気持ちよく座ることができました。
「俺はもう帰るから、ここに座りなよ」
なんて言葉をかけてもらったことも、複数回ありました。
注文はその時にどうしても食べたいものがあれば先に言う程度。あとはだいたいお任せで出てきました。面白いのは、それがサービスなのか何なのかよくわからないことでしょうか。かといって、会計に不安を感じたことはありません。
だって、ごいごい呑んで、食べても、2000円いくかいかないかだったから。こんなので商売成り立つのと思うほどでした。
マスターのSさんの人柄によるところが大きいのでしょうね。常連さんたちは年に1回程度しか行かない僕のような者を歓迎してくれたし、かといって深く絡んでくることもない。他人に迷惑をかけるような人は出入り禁止にするという、暗黙のルールがしっかり守られていました。
だから、こんな怪しげな路地の、お世辞にもきれいといえない店でも、若い女性の姿を見ることが結構ありました。これはすごいことだと思います。
こんなに良い店なのに、当時のあかねは、あまりネットに出ていません。せいぜい名前があがる程度。なぜなら、Sさんが料理や内部の写真は撮ってもいいけど、雑誌とかに出すのはダメだからねといつも話していたから。僕もそれは忠実に守っていて、撮った写真を見ては、あぁ、あれはうまかったなーと思い出しては、次の鹿児島行きに思いを馳せていたのでした。
そんなある日、鹿児島のまち案内を紹介している方のブログを発見。よく名山堀の話題が出ていたので読んでいたら、2016年3月にSさんがお亡くなりになったことを知りました。お店の2階で倒れていたそうです。
なんてこったい。喪失感でしばらく声がでませんでした。それは地元の常連さんたちも同じだったようで、通夜には600人もの人が押し寄せたといいます。
あれから7年。もうそろそろ、当時の写真くらい出してもいいですよね? そう思って、ここに少しだけ紹介させていただきました。
あかねのSさんを偲んで…。
*現在、あかねはその名を引き継いだ方が、その場所で営業されているそうです。それなりに評判も高いのですが、なかなか行く機会がありません。どう変わったのか知りたいという面と、あかねはやっぱりSさんだよなと思う気持ちが交錯している次第です。
初期の画像は徳間書店「食楽」取材時