世界的大スターのインタビューができた、2度目のニュージーランド

コラム

ニュージーランドが大好きになった僕は、帰国してすぐの頃から「ぜひもう一度行きたい」ずっと思ってた。とはいえ、頻繁に行けるほど裕福じゃない。そこで考えたのは、仕事としてこの国に行く理由を作ることでした。

要するに、自分でニュージーランドの企画を作り、記事化の提案をすることですね。当時、仕事をしていた徳間書店月刊Goods Pressの編集者に構想を話すと、

「スタッフ3人分のチケットをバーターで取れるなら、いいよ」

意外なほどあっさりOKが出た。よっしゃ、やってやろうじゃないか。すぐにメーン企画を詰める打合せを始めると、ありきたりの観光的ガイドでは物足りない。ニュージーランドらしく「自然相手のスポーツ」と「オールブラックスメンバーのインタビュー」を入れたいとの要望が加えられた。

編集者がラグビー好きだったから出た案ですが、最初は無茶言うなと思いましよ。だって、当時も今も、オールブラックスといえば、世界最強のスター軍団。1987年の第1回ワールドカップで優勝。1991年の第2回は惜しくも3位になってしまったものの、ラグビー弱小国のスポーツ専門誌でもない僕らのオファーなど、とても受けてもらえるとは思えませんでした。しかも、お願いするほどの予算などないに等しい…。

何かよい方策はないだろうか。ニュージーランド政府観光局に相談に乗ってもらっていたある日、ある選手が所属する会社が、記事に宣伝(広告)を入れてくれるなら、協力するとの連絡が入りました。

それがショーン・フィッツパトリック氏だったのには、飛び上がるほど驚いた。

だって、彼は当時のオールブラックスキャプテンであり、オールブラックス史上最多の代表歴(キャップ)を誇る、ラグビー界の大スターだったから。思いもかけない相手からの快諾に喜びつつ、果たして自分がしっかりインタビューできるのか、不安になったのも事実でした。

もうひとつの課題、自然を相手にするスポーツは、南島ワナカのリゾートホテル関係者から、カヌーの達人を紹介してもらうことができた。かくして、最初の渡航から半年もしない、1992年1月の正月開けから、2度目のニュージーランドに飛ぶこととなったのです。

ルートは前回同様、成田からクライストチャーチ入り。レンタカーカイコウラ(ホエールウォッチング)、マウントクック(氷河遊覧)、ワナカ(カヌー)、クイーンズタウン(周囲のアクティビティ)と周り、最後にオークランド(ラグビー)へ。

編集、カメラ、そしてライターの僕という3人での取材旅行。ショーン・フィッツパトリック氏のインタビューには通訳が必要なため、初回のニュージーランド旅行で登場した、オークランド在住の幼馴染みにお願いした。彼女も、インタビュー相手があの大物と知って、ビックリしていた。

 
準備
今回は取材とはいえ、自分で出した企画なので協力会社との折衝も自身で精力的に行い、ニュージーランド航空から国際&国内線の航空券。マウントクックラインからはマウントクックでの氷河遊覧ツアーの協力。ワナカでの宿泊はエッジウォーターリゾートにお願いし、カヌーの達人も紹介していただいた。

オールブラックス関連はFAXで折衝しOKを貰うことができた。ほか、クイーンズタウンのアクティビティやカイコウラのホエールウォッチング、各所での宿泊はニュージーランド政府観光局が手配してくれた。モーテルなどはかなりいい場所を格安で泊まることができたわけで、これも政府の力といえよう。

出発
まずはクライストチャーチから入り、カイコウラへ。ホエールウォッチングツアーは多少波があったもののツアーキャンセルになることもなく遂行。

海に出ると少し進んでは停まり、集音機のようなものを海に入れて鯨の存在を確かめる繰り返しが続く。正直、停泊するたびに波の影響を受け、気持ち悪くなりかけていた。鯨を見ることができたのは出航して20分後くらいだろうか・・・。急に出てきて背びれや尾びれを見せてくれる。体の一部とはいえ、海の上での出会いに感動した。

それだけじゃない、鯨を見た後、あちこちでイルカが現れては船に近づきジャレたかと思うと、いきなり高いジャンプを見せてくれたり。まるで水族館のショーのような状態になった。岩場に行けばオットセイが寝そべっているし、海の自然を大いに満喫できたツアーだった。

僕的にとても楽しみにしていたマウントクックでの氷河遊覧ツアーは、悪天候のためキャンセルになってしまった。ツアーでは氷河への着陸が体験できるのがウリだったが、飛行そのものができないのではどうしようもなく、空港で「別の企画を考えねば」と急遽編集会議をしたことは言うまでもない。

そして失意の中、次の目的地に向かうべく、僕の運転で移動を始めて約10分。道の脇の柵を乗り越えた羊が、突然目の前に飛び出してきた。うわっ、と思って回避行動を取ったけれど、助手席のドア側と衝突してしまった…。


羊はケガを負ったものの、そのまま遠くに行ってしまった。こちらは車が心配になり降りて調べると、助手席のドアが大きく凹んでいた。*当然、レンタカーは事故で2万円ほどの賠償請求となったが、これは会社が払ってくれたのでホッとした。

ワナカではカヌーの達人に妙義を見せてもらった。本当は僕も体験するはずだったが、連れて行かれたマトゥキトゥキ川があまりに荒れていて、素人には無理だったので見学のみ。

そしてクイーンズタウンではジェットボートなどのアクティビティを体験。モーテルも政府観光局の計らいでTHE LOFTSという豪華なモーテルの最高級の部屋(3ベッドルーム)を格安で泊めてもらえたのであった。

緊張のオークランド

オークランドではオシャレな街で知られるパーネル近くのモーテルに宿泊。交友関係の広い幼馴染の計らいで、郊外の牧場の生活を見せていただいてティータイム。さらに、「シティ・オブ・セイルス(帆の町)」を体験すべく、大きなヨットに乗ってオークランド港を疾走。普通の観光ではできな貴重な体験をさせてもらった。

そしてそして、極めつけは国民的英雄、ショーン・フィッツパトリック氏のインタビュー。彼の所属する会社の応接間で待っている間、僕はかなり緊張していた。同行してくれた幼馴染も「うわー、緊張するぅ」と。

数分後、やってきたショーン氏は、とびきりの笑顔で握手を求めてくると、1枚の名刺を差し出してきた。あら、名刺、持っているの? ちょっとびっくり。名刺をよく見たら、ちゃんと日本語も併記されていてた。これは今も記念にしっかり持っている。

彼の身長は183センチ。対する僕も、実は183センチ。同じ背なのだけど、体の分厚さが倍あった。手もでっかくてゴツかった。相当な威圧感だ。こんな人とぶつかったら、ひとたまりもないと思った。

インタビュー中の彼は饒舌で常にニコニコしていた。無口でぶっきらぼうな人だったらどうしようと不安に思っていた僕は、話を進めるたびに気持ちが落ち着いた。これも大スターならではの許容力なのだろう。

その時の記事

*もっとも、前回のワールドカップ(1991年第2回大会)の話になると、彼の顔から笑顔は消えた。3位という成績は自身もまったく満足していなかったし、ニュージーランド国民も同じ。幼馴染の話では、大会後、帰国したオールブラックスは、相当な非難を浴びたらしい。

後日談
現地で通訳をしてくれた幼馴染にとっても、この出会いは記念すべきことだったようだ。しかも、インタビューから数日後、オークランドでジョギングしているショーン氏と偶然出くわすと、彼から気軽に声をかけてもらったという。近くにいた友人たちから

「どうして彼は君のことを知っているの!?」

相当羨ましがられたとか。縁は不思議なものですね。

2度目のニュージーランド。おまけ画像です

アーンスロー号(クイーンズタウン)

クイーンズタウンのモールでは地元の学生たちがイベントを盛り上げていた

ドライブ中のひとコマ。羊だけでなく、牛も出てきます。結構でかいです
道路脇の標識。これって、馬に乗った人が近くにいるってこと?

その通りでした(笑)
街道にはルーピンの花がいっぱい
カイコウラの風見鶏ならぬ風見鯨
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