~特別寄稿~ かつて、穴水町を歩いた時に感じたこと

コラム

2024年元旦、16時10分。自宅でのんびりしていた僕は、眩暈のようなものを感じていた。次に建物がギシギシと揺れる音が聞こえ、それが地震であることを知りました。震源はどこだ? すぐにテレビをつけると能登半島に印が付いている。しかも、最大震度が5強から6、7へと刻々と変化し、あっという間に津波警報が発令されていた。

続々と伝わってくる能登半島のニュースは、発災直後で不確定な部分が多かったものの、大変な事態が起きていることだけは理解できた。と、同時に、自分がかつて取材した穴水町のことを思い出したのでした。

■2007年の地震

16年前の2008年3月。当時、連載を担当していた「新人保健師の取材」をするため穴水町の保健センターを訪ねた。この町の保健師となってまだ1年ほどのEさんに会うためだった。

地元で生まれ。高校も大学も地元石川県。卒業後は就職先選びに苦労したようで、3年ほど他の町で臨時職員を経験しながら正職員の道を探し、ようやく穴水町に採用された方だ。

ところが、正式採用される直前の2007年3月。能登半島沖を震源とするマグニチュード6.9の地震が発生し、七尾市、輪島市、穴水町で震度6強を観測。その被害は

死者1名
負傷者336名
住家全壊609棟
住家半壊1368棟
住家一部損壊1万2326頭

保健師としての専門知識を生かし、生まれ育った町を元気にしたいと思っていたEさんは、それを膨らませる余裕などなく、災害対応という名の厳しい現場を駆けずり回り日々が続いたのでした。

■震災1年後の町の姿

災害、とくに震災への対応は、ベテランの保健師でさえ精神的に疲弊します。地元が被災した場合、自分自身も被災者なのに、家族と離れ役所や避難所に寝泊りしながら働きづめになるからです。それが新人であるならなおさら、言葉で言い表せないほど大変な日々だったはずです。

取材当時、Eさんには町の各所を案内していただいたけれど、保健センター建物周辺の地割れなど、1年経ってもあちこちに震災の爪痕が残っていることに驚いた。

町には未だ仮設住宅が残り、自宅に戻ることのできない高齢者が複数、身を寄せ合って暮らしていたことも記憶に残っています。僕が訪れた時もEさんは仮設住宅を訪問し、皆さんの話に耳を傾けながら、誰かが孤立しないようコミュニティ作りもしていた。

穴水町は高齢者の多い町で、2008年当時の65歳以上の人口比率は約35%。10年後には約45%になるとの試算が出ていたことを考えると、あの時よりも今のほうが、災害後の対処が難しいはず。

■地元で頑張る方が元気になれる支援を

後の東日本大震災の時もそうでしたが、このような地元の苦労は、外から支援に行った人も、取材に行った大メディアも、あまり知らないままで終わることが多い。実際、ある町などは首長や議員たちの行き当たりばったりな行動により、職員の多くが身も心もボロボロになり、不本意ながら辞職という道を選ばざるを得ない状況まで追い込まれていった例がありました。

穴水町で案内していただいた「ボラ待ちやぐら」や「美しい湾内の景色」、寿司屋で食べた「能登丼」など、再び笑顔で堪能できる日が来て、地元を支えている方々が、一刻も早く心の平穏を取り戻せることを祈るばかりです。

タイトルとURLをコピーしました